社会的分業について①

社会的分業。

今や当たり前すぎて日常では意識されることもない背景となってしまったこのシステムのおかげで、私たち人間はこれほどの速度で文明を発展させることができたという。

そして社会の一層の複雑化に伴い、その分業化は今もなお刻一刻と進んでいるようにも思う。制度や知識、技術などが高度化・複雑化した結果、一人の人間が能力的にカバーできる領域が縮小しているのだろう。それは、飽くなき知的追及の結果、学問領域が必然的に細分化・専門化していく状況と類似している。

プロフェッショナルになることが暗に求められているともいえるし、ジェネラリストになるのが非常に難しい状況だともいえる。

社会全体の生産性、みたいなことを考えた場合には、社会的分業はとても合理的に機能するだろう。しかし一方で、人間あるいは一個人として生きるということを考えた場合、大きな弊害を生んでいるような気がしてならない。

例えば、制度の複雑化の帰結に生まれたであろう弁護士という法律の専門家は現代社会において無くてはならない存在であるが、よくよく考えてみれば自分の生活を縛るルールの全容を個々人が把握せずに生きているという状況が、いってみれば歪ではないだろうか。何をすれば反則になるのかを分からないままスポーツの試合に出ている選手はいないだろうが、私たちはそんな風にして日々を過ごしているのである。

なお確認であるが、これは個々人の勉強不足による帰結ではない。社会の制度の複雑さがそうさせているのである。

法に限らず、食、技術、自然環境、ありとあらゆる私たちを取り囲むものを、私たちは知らずに生きている。自分が生きる上で必要なことを、誰かに完全に任せて生きている。しかも産業部分における分業化のみならず、個々人の私生活においてもアウトソーシングが進んでいる現代である。

分業化や私生活のアウトソーシングの結果、個人の可処分時間が増え、結果人々は「自由」になっているのかもしれない。一方、そんな「自由」と引き換えにして、自分で自分の命を保っていくような「生」の感覚が失われているようにも思うのだ。

それは、人間という生物がなんであるか、という根源的な感覚を持たぬまま、社会において「自由」を行使する人種の増加にも通ずるのではないか。「自由」の幾らかの割合は、影響力に変換される。ここに、人間が人間から離れていく一つのスパイラルがあるように思う。

個人的な話だが、私は山に行くと、どこか少し「人間らしさ」を取り戻せるような気がしている。街を離れ自然に放たれることが一つの大きな要因ではあろうが、素朴な道具しかない中で(大抵は電気もガスも通ってない所で遊ぶことが多い)、火を起こし暖をとり調理をするといった、どこか自分の「生」を手作りしているような状況が、そうさせてくれるのだろう。


コメント

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