登山から感じた、時間管理によって失われるもの

登山とは、何か(簡単に)

先日、久しぶりにやや本格的な登山をした。山や川に入って時間を過ごすこと自体はよくあるが、登山という形態で自然と関わるのは久しぶりだったため、色々感じることができた。よくも悪くもその多くが、自身の在り様を考えさせるものであった。
また、それらの多くに共通する精神は、「登山と人生は似ている」である。登山も人生の一部であるため当たり前と言えば当たり前かもしれないが、この感覚を残しておく。

なお、今回の登山の基礎的な情報を示すと、
白山界隈を一泊二日、食料と宿泊用具を持参、避難小屋宿泊、単独、一日平均移動時間8時間程度、というものであった。

ところで、登山とはなんだろうか?
山を歩く行為であることは自明であるが、それに加えて個人的な感覚で言えば、「ある想定された行程をもとに、目的地をつないでいく行為」だと言えるとも思っている。想定された行程”通り”ではなく、”頂上を目指す”訳でもないことに注意したい。

今回の行程で言えば、「いい感じのところにあって星空が綺麗だと噂の避難小屋」を一日目の最終目的地として、それに至るまでに「エコーライン」を通り、「室堂」でゆっくりご飯を食べ、「大汝峰」に登り、「地獄谷」や「清浄ヶ原」を見る、というものであった。このように、宿泊場所や(日帰りの場合は)駐車場への到達を一日の最終目的地としながら、幾つか目的の場所を心に秘めながら山を歩くといった感じである。

時間管理の重要性

登山において重要になってくるのが、時間管理である。
登山用地図には「コースタイム」なるものが示されており、ある地点から別の地点までのおおよその所要時間が記載されている。これは、例えば「成人男性が10kgほどの荷物を背負って無理なく歩ける、休憩を含まない所要時間」を基準に想定された時間(ガイドブックなどにより基準は多少異なる)であり、その時の自分の体力やコンディション、装備の重量などを勘案して自分にとっての想定コースタイムに脳内で変換する必要はあるものの、これを一つの重要な手がかりとして全体の行程を設計することになる。

「小屋に17時には着きたいから、室堂は14時に出る必要がある。いや、途中景色が良さそうな場所でのんびりしたいかもしれないから13時には出たい。となると、ゆっくり昼食をとることを想定して12時には室堂に着きたいから、、」的な感じである。

全体の行程を設計した後にも、コースタイムはペースメーカーとしての重要な役割を担うことになる。
設計した行程の計画は想定でしかないので、実際に歩いてみると、思いのほか体力が落ちていて予定より時間がかかってしまったり、様々なトラブルなどで思いがけない時間のロスが生まれたりすることもある。

早まる分には問題無いが、一定以上の時間の遅れは軽視できない。従って、今自分が想定より遅れていないかどうかを、登山中に逐一確認する必要がある。時間にかなり余裕がある計画ではなく、自分の限界近くでシビアに立てられた計画であれば、なおさら時間への意識は強く持たなければならない。

時間管理によって失われるもの

安全に登山するにあたって、時間管理は重要であることは疑いの余地がないだろう。ただ、これによって失われるものもある。

それは、「いま自分が行程通りに進んでいるかどうか」ということや、時間そのものが気になってしまい、どこか心が落ち着かないということである。

折角、街を離れ雄大な自然の中に繰り出したにも関わらず、次の予定や締切を心のどこかで意識せざるを得ない日常のせわしなさみたいなものを、自ら作り出してしまっているのだ。

今回、少し自分にとってシビアな計画を立ててしまったことも相まって時間管理へ意識が強く向いてしまい、目の前にある自然を十分に感じ切れていない自分がいた。
別の言い方をすると、目的地に到達すること、計画を遂行することが念頭に来てしまい、目の前にあるもの愛でる十分な心の余裕がなかったのである。

これは日常の人生でも同様かもしれない。
例えば高い目標を掲げ、それに対し邁進する。そのために通過しなければいけないチェックポイントやマイルストーンをクリアすることに躍起になり、時折り息抜きしながらも頑張る(息抜きは息抜きでしかない)。チェックポイントをクリアしたことにちょっとした達成感を覚えつつも、頭には次のチェックポイントの存在がよぎり、またすぐに歩みを始める。後〇日までにあれを終わらなせなければ―。そんな歩みの中で、自分が何かを愛でるほどの十分な余裕もない。
かつて僕も一時そうであったが、こんな風に日常に追われている人も一定数いるのではないだろうか。

例えばひたすらに頂上を目指す登山者のように、そんな態度で物事進めれば傍から見て素晴らしい成果を上げることができるかもしれない。「スピード」という観点のみから考えれば、上記のような態度は奨励もされるだろう。

だが、山を歩くことも、人生を生きることも、果たしてそんなことでいいのか、との思いがよぎる。何のために山に登るのか、何のために生きるのか、という問いへの答えは人それぞれであろうが、少なくとも自分は、そこにあるものの存在をしっかり感じながら生きていきたい。その具体例である登山においても、自分はそちらのほうが何倍も良い時間を過ごすことができる。

ちょっとした試み

一日目の夜に、横になった僕の頭をそんな反省が駆け巡ったので、、翌日の行程前半では時計チェックを封印して山を歩いてみた。太陽の位置が、夜明けの時刻では水平線に、正午には天頂に来ることを手掛かりにしながら、おおよその時間感覚を自然から得られるようにして歩いてみることにしたのだ。なお、二日目前半は、一日目歩いたルートの折り返しにつき地図も必要はなかったので同様に封印してみた(すなわちコースタイムは確認できない)。

すると面白いことに、前日と比べて遙かに自然と一体になれたような感覚を抱くことができた。
前日にはあまり意識していなかった太陽の位置が徐々に上昇し、周囲が明るさを増していく。朝が少しずつ昼に変わっていく。遠くで雲海を形成していた雲が、少しずつ立ち上がっていく。鳥がなく。そよ風がふく。歩く度に、景色が展開していく。

時計を封印したことなのか、太陽を意識したことなのか、(あるいは地図を封印したことなのか)何がどれだけ自分の精神状態に寄与したのかは定かではない。ただ、「時間管理」や「行程管理」から少し解放されようと試みることで、目の前にあるものに満足できるほど集中できたのは確かであった。

(なお、昼頃に時計と地図を封印から解き放ってみると計画より少し遅れていることが判明し、 その後は遅れを取り戻すために時間を意識せざるを得ないという事実はあった。)

それが自分にとって心地よい在り方であるものの、いつもこんな風にいることはできない。
登山中においては安全管理という観点から時間への意識は一定以上は持たねばならないし、日常生活においても、「時間」を無視して生きることは現代社会人には許されていない。また、タイムプレッシャーをかけて、自身に負荷をかけ能力を伸ばしたり、溜まった仕事を効率よくこなしていくことも時には大切でもあろう。

とはいえ、そういう風に過ごしていては十分に感じられないものがあることを知りながら、たまには時計や計画みたいなものを頭から消し去ってそこにある時間と空間に浸ることを大切にしていきたいとも思う。

「管理」と「管理からの解放」の行き来、抽象化すれば、そんな両者のバランスをとることが、僕らの人生を豊かにしてくれるのかもしれない。

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