これは管理人別サイトで掲載された文章(2019年2月18日掲載)を、転載したものです。
自分の心を大切にしたい。最近、そんな想いが強くなってきた。
自己を大切にしようという気持ちが芽生え始めたという話ではなく、自分がかつて長らくそうであったはずなのに、知らず知らずのうちにないがしろにしていたことに気が付いたという話である。
ないがしろにしていた理由は、おそらく二つある。
一つは、自分が好きではないビジネス的な思考を身に付けざるを得ないとの考えのもと、その過程の中で自身の精神的理想を抑圧していたからである。
甘ったれたことを言うが、僕は金銭的障壁を設けることが好きではない。正確に言えば、自身が行うサービス的なものにあらかじめ価格を設定し、「このくらい払える人だけ来てください」というのがあまり得意ではないのだ。
勿論、自身が何か購買行動を行うに際しては、価格というものを一つの重要な要素として評価するし、それは意思決定に大きく影響を与えるものである。「その商品が、自分にどれだけの価値をもたらしてくれるのか?」「他の類似品と比べて、コストパフォーマンスはどうか?」など、購買にかかる意思決定の過程において、価格という値Xがないと、思考が進まず価値判断のプロセスが停止すると言ってもいい。すなわち、そんな消費者心理を考えると、商品に価格を設定するということは商売をする時の大前提であると言える。(それに対しての打開策としては、オークション制度や投げ銭制度が考えられるが、とりあえずここでは割愛する。)
ところで、商品は財評価の仕方によって分類することが可能であり、購入前にその評価ができる「探索財」、購入・利用後にその評価が可能となる「経験財」、利用してもその評価が困難である「信用財(信頼財)」がある。僕が提供したいのは教育的なサービスともいえるものであるが、これはおそらく信用財にあたる。「点数を上げる」ことを目的としている進学塾的サービスであれば経験財に分類されるであろうが(とはいえ、入塾後点数が上がったとして、それがサービスそのものの効用によるものなのか否かは、判別が難しい様に思う)、もっと分かりにくい領域で行っている教育については、性質上「信用財」と分類されるであろう。
人がその瞬間にイイと思うものと、長期的に見て良いものは異なる。こと、人の成長ということに関していえばなおさらそうであろう。また、その教育を受けた者がある一定期間の後望まれる状態に変化できたとして、先に述べたようにそれが当該の行為の帰結であることを証明することは非常に困難であるように思う。したがって、教育という分野における価値判断については、一種の信用や、言い過ぎれば信仰というものが必須であるように思えるのだ。
そんなサービス財としての特徴ゆえに、教育の「価値」は提供者消費者ともに正確には評価不可能であるだろう(勿論、自身としてはその価値を信じている。しかし、それが定量的にどれほどなのかと言われると、正直よく分からない)。ここに価格設定の難しさがある。
「価格は需要と供給のバランスによって決定される」という市場理論に則って、サービス本来の価値について大雑把な検討もされないまま価格が決定されることも現実にはあり得るし、この分野の価格の決定方法としてそれが妥当なのかもしれない。ただ、需要と供給の均衡というのは意図的な介入(広報)によって大きく傾くものであり、それに委ねることが正義だとは到底思えない(その理由も幾つかあるが、長くなりすぎるので割愛する)。
また、価格にまつわる話としては、「お金を払える人だけが教育を受けられる」という状況も個人的には好きではないので、そういう意味でも金銭的障壁を設けるのは、理想的には違うと思っている。
などなど、色々な想いがあるが、「そんなこと言ってもお金もらわんと持続可能性がないし、やっていけないのだから、ごちゃごちゃ考えるのは置いといて経済的持続性をまずは確立しまっし」というのが社会的な正解だろう。とはいえ、そんな「正しいビジネスライクな考え」に任せて上記のような精神的理想を抑圧しすぎていたため、自分をないがしろにしていたなぁという話でした。久しぶりにこれだけ表出させた。
生きていくために、「現実」は大事だ。一方で、一人の人間として生きていくうえで「理想」を無くしては死んでいるようなものだ(個人的には)。よくある表現で恐縮だが、理想と現実の狭間でどう生きていくのか?理想を現実の中で如何に実現するのかというスタイルのもと現実味を帯びた生き方で、できれば生きていきたい。
さて、ないがしろにしていた理由二つ目は、「教育者」らしくあろうとし過ぎたことにある気がしている。
既に文章から感じ取られているだろうが、僕はこだわりが強く、自我が強く、自身の思想みたいなものがある程度強固にある人間だ。一人の個人として、それを主張するのが嫌いではないし、そんな風に存在するのが自分だとも思っている。
一方で、それに人を染めるのは違うと思っている。僕には僕の正義があり、それを自分としてはある程度信じている(都度点検、改善はしている)が、それを特に若者に対して直接に強く主張することには一種の抵抗がある。
現在、十数名の高校生や大学生とそれなりの密度で関わることがあるが、その密度ゆえに、その中で自分を主張することをおそらく極力抑えてきた。自分の色に染めたく無かったのだ。
これは彼らを侮り過ぎかもしれないが、僕が持っている思想を論理性を以って全力でぶつけると、それに染まってしまうような気がしてしまっている。それではよくない。「全体性も意識しながら、自分の人生を納得して生きる」ことが大事だと思っているし、そう在って欲しいが、それを押し付けるのは違うし、また、「自分の人生を生きる」という観点から言っても、他者の思想に依拠することは正しくなさそうだ。
実は僕がこんな活動をしている一つの隠れた理由に、「正解が見えない社会や個人の在り方について、共に考える同志がいたら嬉しい」という想いがある。(社会も個人もよくなればいい的な)志はなんとなく同じくも、それぞれ違う色であるからこそ、議論などの中でお互い切磋琢磨していけるという関係性。そんな関係性が増えたらいいなと思っている。そういうごく個人的な想いからも、染まってしまっては面白くない。
最近の子は、素直な子が多い。なんとなく話を聞くに、友達との心の底からの衝突みたいなものを経験していない子も多いように思う。強靭な軸を持った大樹に対してはどれだけ本気で体当たりしてもこちらの身を心配するだけでよいが、まだある程度の頑健性も持っていない若木に対しては力を込め過ぎて折ってしまうことを恐れるように、影響を与えすぎることを恐れているのだ。
先にも述べたように、これは彼らに対する侮りかもしれないし、自己の過大評価かもしれないが、ともかく、そんな風な考えのもと、自分を抑えてきた節がある。「伝えたいことが沢山あるが、それはまだ伝える段階ではない。」と思いながら高校生や大学生と関わってきた。そんな中で一種の感情と自分らしい在り方を抑圧することによって、一人の人間としての自分をないがしろにしていたのである。
きっとこれまで、こんなスタンスだから出来たこともあるが、一方でだからこそ不十分であった部分も多々あるように思う。教育者的な立場である自分に、どれだけ個人的な成分を混ぜていくのか。その配合のバランスを、今一度見つめ直すフェーズに差し掛かっている。
以上、大きく二つの理由によって、自分の心をないがしろにしていたここ数ヶ月であった。
自分の心(感性)の反対側にあるそれぞれの理性にも正統性は勿論あるし、そちらを無視することもできない。
理性と感性を、如何にバランスよく大切にしていくのか。あるいは、トレードオフではなく弁証的により高次元で統合することができるのか。理性に寄りすぎだった昨今の慣性を一先ず脱ぎ捨てて、そんなことを考えてみようと思う。
現状の整理及び備忘録としてこのような文章を書いてみた。
意味があるかは分からないが、なんとなく上げてみようと思ったので、ここに追加しておく。
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