個人と全体

これは管理人別サイトで掲載された文章(2019年3月17日掲載)を、転載したものです。

 「個」の概念が重要視される時代だ。

 かつての大戦の教訓もあってか、僕も含め日本人の少なくない割合が、「国のため」と声高に叫ぶことに幾らかの心理的抵抗を感じている気がする。

 論理的に考えて、「国のため」というのはそこまで悪い考えではないように思う。僕らの帰属意識を少しずつ外側に飛ばしていくと、例えば、家族、地域、市町村、都道府県、国という風に拡がっていき、いわば国を考えるということは、その中に含まれる大多数の他者を考えるということになり得るように思える。
 と、そんな風に解釈してみても、感覚的なところだろうか、やはり「国のため」という響きにはどこか盲目的な全体主義を感じるし、接頭に「お」がついて「お国のため」となってしまってはもう、個人的には嫌悪感に似た違和感を覚えてしまう。
 「国家のため」と言い換えるとなんだか少しスマートな気もするが、言っていることは一緒であろうし、むしろ「国家」と表現することで「国の権威とシステム」的な色合いが強くなり、盲目的な全体主義というよりは、抑圧的な全体主義を私的には感じるところだ。

 ともあれ、そんな歴史的な刷り込みみたいなものもあってか、たとえば、国という分かりやすい一つの「全体」よりも遙かに「個」が大事である、という信念の基に僕らは生きているのではないだろうか。

 技術革新もそれを後押ししている。
 メディアの在り方が分かりやすいと思うが、かつてはテレビ、新聞、雑誌などのマスメディアによって情報を入手するのが普通であった。
 しかし現代においては、個人がブログやYouTube、SNSなどで情報を入手・発信することが可能となっているし、ある情報を拡散するかどうか決めるのも、それぞれの個人の判断に依っているということができる。
 「個」の持つ影響力が大きくなり、「個」がフィーチャーされやすくなった時代であるといえる。

 そんな中、「自分の人生、自分の好きなように生きようぜ」と大きな声で叫ぶ人が増えてきたように思う。

 部分肯定である。

 「自分がどんな風に生きていきたいのか」を真剣に考え、それを実現すべく生きていくということ自体は素敵なことであると思うし、人生における主体性を持つことは、ほぼ間違いないく個人の幸福度の増大に繋がると考えられるので、その点からも奨励されるべきことだ。

 問題は、「どんな風に生きたいか」を、どう設定し検証したかである。
 幾ら「個」を崇拝したとしても、所詮僕らは「全体」の中に生きている。
 全体というのは、例えば社会であり、世界であり、自然であるように思う。冒頭に述べたように、「国」というのも一つの全体であると思うが、「国」のスタンスはあまりに恣意的過ぎるので、「全体」の標本として置くには適切ではないと今思い至った。ここでは、より普遍的な性質を帯びていそうなそれらを、「全体」と呼びたい。
 そんな全体の中に、自分を位置づけ、生き方を検証したのかどうかが重要であるように思う。

 極端な例として、人を傷付けることに快感を覚える人がいたとして、そんな人に「自分の好きなように生きればいい」なんて言えるだろうか?誰しもが首を横に振るはずだ。なぜならそれは、その「個」の嗜好が「全体」を損ねるからだ(もしかしたらそんな個体がある一定頻度で現れることに何らかの効用があるかもしれないという可能性については、ここでは深入らない)。
 これは行き過ぎた例かもしれないが、同様の例が世の中に無数にあるように思う。
 例えば、自分が素晴らしいゲームを作りたいとして、廃人を量産するようなゲームを製作することが全体の棄損に繋がりはしないか?
 例えば、ある美味しい食品を世の中に届けるという行為が、原産国の自然を脅かし全体を損ねはしないか?
 例えば、高い授業料をもらって高品質の教育を提供するという行為が、格差の増大を通して全体を損ねはしないか?
 例えば、地元の良さを伝えて観光客を呼び込む行為が、結果地元民の生活の質を著しく下げることによって、全体を損ねはしないか?
 
 これらに対する答えは、それぞれで違うだろう。ただ、まず大切なのは、自分が「個」として嗜好あるいは信望する行為を、「全体」という視点から検証するということであるように思う。
 そして検証する際に、その「全体」像を如何に捉えているかが次いで重要になってくる。「自分にとって全体とは何か?」そして、「全体はどうあるべきか?」その前提に差異があると、勿論その検証結果は異なってくるからだ。
 経験や知識によって、全体の捉え方は異なってくる。言い換えれば、より妥当性を以って全体を評価するためには、経験と知識が必要であるといえる。

 「自分の人生は自分のものだ」という人々が増えることは素晴らしいことであると思う。しかしそれだけではきっと危うい。「とはいえ、自分は全体の中に生きている」という意識も、だからこそ育むことが重要であると言える。

 いわば、「個人」としての自分と、「全体」の中の自分。その両方を意識しつつ、その均衡のとり方とクオリティを高めていくために、学び、生きていきたいと思う。

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