これは管理人別サイトで掲載された文章(2018年12月12日掲載)を、転載したものです。
もう4、5年ほど前になるだろうか、こんな光景を見た。
とある地方のローカル線。車内にて始発駅からの出発を待つ。下校時間と重なったのだろう、続々と高校生たちが乗り込んでくる。友人らしき一団が正面の座席に腰を下ろし、スマホを取り出し操作し始めた。彼らは黙々と、それぞれに画面の向こうへと意識を飛ばしている。
そのまま幾つかの駅を通過し、やがて一人が降車するために立ち上がった。
「じゃあな。」
友人たちは顔を画面に固定したまま、おう、と返答した。
今では当たり前となってしまったであろうこの光景。もはや多くの人々にとって、何の変哲もない日常の描写としか映らないかもしれない。
しかし、当時の僕にはそれが、とても寂しく、勿体ないという印象を与えた。
ところで、2010年に大学進学を機に、僕は東京へ移り住んだ。
入学後1~2年の間にだろうか、スマホが急速に周囲に普及していったと記憶している。同時に、例えば電車内での人々の過ごし方が変わっていった。スマホと睨めっこする人が増えたのだ。
だから、東京という都会で、向かい一列スマホに憑りつかれているかのような光景は見慣れていたし、それに対して最初は違和感を覚えたものの、徐々に感情も動かなくはなっていった。
しかし、どこかそんな状景は東京という異常性が為せる業だという思い込みがあったらしい。東京から遠く離れた落ち着いた田舎で、友人たちがすぐ隣に座っているにも関わらず、画面の向こうの何かと対峙しているその姿に、寂しさを覚えたのだ。
恥ずかしながら、僕もゲームの類は嫌いでないし、時折りそれに熱中もしてしまう。パソコンでメールを使い出した中学生の時期には、相手の返信をまだかまだかと待ち焦がれてパソコンに貼りついたりもした。
だから、彼らがスマホで何をしていたかは知らないが、小さなデジタルデバイスが繋ぐ世界の魅力みたいなものも、よく理解しているつもりだ。
それでも。
今実際に自分が関わるべきは「今ここにある時空間」であって欲しいし、ありたい。
画面の向こうに意識を飛ばしているうちに、「ここ」にある時間も当たり前だが消費されていく。例えば、高校三年間という長くもあっという間の時間、儚くも一生ものの財産になり得る人生の一大期間を、どうかその場その場を大切にしながら過ごして欲しい。
勝手ながら、そう思うのだ。
これは、自分に向けた言葉でもある。
時に、情報に接するがあまり”情報中毒”のような症状に陥ってしまうことがある。
見たばかりのネットニュース一覧をまた眺めてしまうし、リンクからリンクへと意味もなく飛んでしまうし、「何か情報をインプットしたり、人とやりとりしていないと落ち着かない」というような、全く忙しくもないのに”忙しさ”に駆られることがある。
欲求は欲求としてあるし、無理に押さえつけすぎることも無いかもしれない。
しかし、たいていの場合、そんな一過性の情報中毒からちょっと頑張って抜け出してみると、やはり世界は輝いて見えるし、「生きている」と僕は感じられる。
例えば、イヤホンを外すことで、そこに在る色んな音に気付けるように。
例えば、目線を上げることで、空の青さを知れるように。
意識のフォーカスを「いま、ここにあるもの」に向けることで、世界により深く身を浸せるような気がするのだ。
技術の進歩により、デバイスの向こうの世界は拡がった。
しかし同時に、僕らのリアルは色を失ったように思う。
なお、こんな文章を書き、ネットにあげる時点で一種の自己矛盾に陥ってはいるのでそこは心苦しくもあるが、なんとなくこの感覚を残したいと思った。
(今あなたの周囲が浸るに足る世界であるならば、)この文を読み終えると同時に、数分間でもデジタルから離れて現実世界を深く感じてくれると、とても嬉しく思う。
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