「自然に遊びに行く」という矛盾

人は、人間社会は、多くの矛盾を抱えながら生きている。
数多ある矛盾のうち、個人的に結構心苦しくなるものの一つに、「自然に遊び行く」という行為にまつわる矛盾がある。

新型コロナによる影響だろうか、どこか、人々の中で「自然」に対する関心と欲求が高まっているように見える。私的には、素晴らしいことだと思う。
都市型の生活に埋没する中で都市の論理に捕縛された精神性と常識を、自然はすっと緩め、時に新たな視座への道筋を示してくれる。持続可能な社会の実現に向けて取り組んでいくことが、人類全体に共通する新たな大きな物語になりつつあると言っても過言ではない昨今においては、特に、それは意義深いものであると言えるだろう。
と、そんな小難しい話は無しにしても、自然で過ごす時間は、単純に、楽しいし、心地よい。自然に触れる時間を一定量確保することで、自身のQOLはより高くなると思っている。

要するに、自然で過ごす時間は、良い。

一方で、看過できない副作用がある。

そのうちの1つは、化石燃料を使用することによる問題だ。
都市部を主たる居住空間とする自身にとっては、好ましい自然のフィールドは徒歩や自転車で行ける圏内にない。必然的に、化石燃料を使用して現地に赴くこととなる。
エネルギーが枯渇することによって将来的に人類が苦しむというだけであれば、(将来世代に対する責任問題はありつつも)人類単位で見た時には自滅の様相を呈しているだけなので、私的には納得でき得る帰結だと思っている。
一方、温暖化が環境“破壊”に繋がるという前提、また、二酸化炭素が温暖化を進行させているという前提に立つならば、話は変わってくる。自然環境は、人類だけの所有物ではないからだ。
自然を希求する移動によって、二酸化炭素は排出され、私たちは自然環境を損ねてしまう。倒錯してしまった愛情の様に、自然を愛し求めるがゆえに、自然を破壊してしまうのだ。
「楽しかった」「自然ってやっぱいいよな」と愉快になっている最中、実は、その足で、自然を踏みにじってしまっているのかもしれない。

このようにして、自然と離れたフィールドに住む人間が、自然との触れ合いを求めた時に、悲しい矛盾は起こってしまう。

個人的には、「できるだけ長く現地で滞在する(日帰りでは極力いかない)」「多人数で行く際には、できるだけ同じ車に乗って行く」といった、雀の涙のような努力を介して、言わば“コストパフォーマンス”を向上しようと試みてはいる。だが、たかがしれている。

核分裂や核融合といった、また別の角度から環境を“破壊”し得るような技術に頼るのではなく、真に持続可能なエネルギー社会になれば、この罪悪感は消え去るのかもしれない。
ほぼ他力本願ながら、一刻も早くそうなって欲しいと切に願っている。

とはいえ、この自己矛盾に伴う罪悪感が、理性を持った存在が「生きる」ということの、本質を提示しているようにも見える。

業の深い人間として、その罪を少しでも濯ぐべくどう生きていくのか。
心苦しくはあるが、これが現代社会に通奏低音として響く価値観なのかもしれない。そんな風にも、思えてきた。

(そのうちの二つ目、三つ目は、力尽きたので省略しました。)

コメント