Time is money. 時は金なり、という言葉がある。時間はお金と同様に大切であるから、無駄にしてはいけない、という戒めめいた格言である。
格言として、優秀だと思う。ないがしろにしがちな時間の価値を、価値があるものとして分かりやすいお金に語らせることで、私たちに時間の価値を再認識させてくれる。しかし、この従属関係は適当だろうか?
以下で、この従属関係の転倒を試み、後半ではそこから見えてくる世界について主張してみることにする。
そもそも、お金が価値を持つのはなぜだろうか?
(以降、マルクスの資本論の主張を少し用いるが、全編を読み通してはいないため、解釈の不備や、また記憶違いが存在するかもしれない。ご容赦願うと共にお気づきの際にはご助言いただきたい。)
マルクスが言っていたように、お金そのものには使用価値は(ほぼ)ない。一方、コートや布、パンなど商品はそれを使用して何かしらの効用を直接得ることができる―体の保温、衣類の作成、腹を満たす―ため、使用価値なる価値を持つことが出来ると言える。
ではなぜ、ある意味で何の役にも立たないお金が価値を持つのか。それは、お金が使用価値のある商品と交換可能だからである。つまり、お金の価値と言うのはお金そのものにあるのではなく、お金の外側にあると言っていいだろう。お金と交換可能性のあるあらゆる有用な商品群のお陰で、お金は価値を持つことが出来るのである。
つまり、お金の価値は、商品の価値に由来する。
また、マルクスは、商品の価値の源泉は労働であるといった。デジタルコンテンツが普及し商品のコピーペーストが容易くできるようになった今、価値と労働の量的な関係性は再考慮する必要があるものの、モノとサービス双方を含む商品の形成にあたっては、依然としてほとんどの場合に人の労働が投入されていると言っていいだろう。
マルクスによると、商品が価値を持つのはそこに労働が凝固しているからである。つまり、商品の価値は、労働に由来する。
(以上はほぼマルクスの資本論が述べていたことだが、ここからは個人的なアイデアを付け足していく。)
マルクスの見方とは少し違うかもしれないが、つまりは労働が価値を持っている、ということができるだろう。では、なぜ労働が価値を持つのだろうか。
それを説明にするにあたって、労働を因数分解してみる。純粋な個人の労働に何が必要かということを考えると、それを完遂するに必要な「時間」、それに取り組むために必要な精神と肉体の「エネルギー」、そしてそれを支える個人の「技術」が思い浮かぶ。したがってこの思い付きに従えば、労働価値=時間価値×エネルギー価値×技術価値であると言える。
一般に、特殊な技術を持つ人の労働の市場価値は高い。弁護士、医者、宮大工など、高度な技術(知識を含む)を必要する職業の労働は、その技術価値の高さゆえ、高い価値を持つともいえるだろう。
一方で、ごく一般的な技術しか持たない労働者の労働にも、価値は存在する。その場合、便宜的に技術の貢を省略することで、労働価値=時間価値×エネルギー価値と表すことができるだろう。(簡単のため、以下ではこの簡略化した式を前提に話を進める。)
これによって、ある労働者の労働が価値を持つのは、その人の時間またはエネルギーに価値があるからだということが出来得る。
なんとなく、どちらにより価値があるのか気になるところなので、ここで一つの視点により暫定的な解を得ることにする。経済学において重要な視点、「希少性」について考えてみる。
「希少」である、ということは単純にレアだということではなく、大雑把に経済学的に言えば「相対的に足りない」ということである。
空気や水は、ある意味私たちにとって必要不可欠なものであり、言い換えれば最大級に大切なものである。とはいえ、これらには経済的価値がついていないか、ついていたとしても軽微なものである。一方、たかだか紙きれ一枚のトレーディングカード 、あるいは紙きれですらない0と1の羅列であるソシャゲキャラクターのデータに、人々は数百万を費やすこともある。これらは、明らかに水や空気より重要ではないが、「相対的に足りない」のである。(一方で、世界に一つしかないものがあったとしても、それを欲する人がだれ一人いないとすれば、それは足りている、ということになる。)
「相対的に足りない」状態を言い換えれば、①人々が欲している が、②人々が欲するほど十分な量が(市場に)存在しない ということができるだろう。
これはマクロな視点なので、ミクロの視点で書き換えれば、①(もっと)欲しい けど、②入手する手段がないか、困難なものに限られている と言い換えることができるのではないだろうか。
この視点より時間について考えてみると、一般的にはおそらく①もっと欲しい場合が多く、②基本的に上限は決まっており、なおかつ刻一刻と目減りしている といった状況ではないだろうか。①については異論があるかもしれないとは思いつつ、②についてはそれなりに誰もが納得する解釈だと考えられる。
一方、エネルギーについて考えてみた場合、一般的にはおそらく①もっと欲しいと思う人がそれなりにいつつも、②休息や余暇活動、食事などで再生産可能 といった感じではないだろうか。
従って、マクロな視点を無理矢理ミクロに転用した乱暴さはありつつも、「希少性」という観点から言えば、再生産や増産が基本的に不可能である時間の方が、エネルギーよりも圧倒的に価値がある、といえるのではないだろうか。
よって、労働の主たる価値の源泉は、時間である、ということがいえるような気がしている。
以上より、論理の大雑把さはありつつも、お金→商品→労働→時間×エネルギーと、価値の由来を辿ってみたことで、お金の価値の源泉は、時間とエネルギーであり、特に時間の影響が大きい、ということができるのではないだろうか。
Time is money. ではなく、Money is time.
お金に価値があるのは、時間に価値があるからであり、お金の価値は時間が語っているのである。
その②へ続く。
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