マネー・イズ・タイム②

前編はこちら


Money is time. 前編で、お金の価値の源泉は労働、もっといえば時間にあることを主張してみた。
実際に、お金が時間に変わることを具体例で確認した後に、話を展開していこうと思う。

お金を使って、僕らは何を買うのだろうか?
例えば、米、寿司、衣類、家、1時間の家庭教師、1日分のディズニーランドの入場券 ―個人的に最近縁のない物も含まれているが― 明らかに生きていく上で必要なものもあれば、そうでないものもある。

例えば、寿司について考えてみよう。

お寿司の値段を大雑把に分解すると、原価+付加価値に分けられるとして、まずは分かりがいいので付加価値について考えてみる。
お寿司屋で寿司を食う場合を考えてみよう。寿司屋で上乗せされている付加価値は、食材を寿司に変えて提供してくれるということである。具体的には、酢飯を作る、魚をオロし切り身にする、寿司を握る、皿に盛る、などなどの行程が必要となるが、それを完遂するにあたって最も必要な要素が「時間」である。寿司屋の大将だか店員が、彼らの時間を費やしてこの作業をしてくれるのである。
私たちは寿司の付加価値分のお代を払うことで、彼らにこういった作業をしてもらうことができるが、それは、自分が持っているお金と彼らの時間を交換していることに他ならない。

原価部分も同様に考えることが出来る。原価には、食材費、食器や店舗の減価償却などが含まれるが、これらも遡れば同様に誰かの時間が必要である。米農家や猟師、陶芸家あるいは食器メーカー従業員、大工や建築士などが具体的には該当するだろう。

勿論、そこからさらに遡ってより多くの誰かの時間を見出すこともできる。言ってみれば、「寿司の消費」を終着点とする長大な連鎖の過程で付加価値が添加された無数のポイントにおいて、同時に誰かの時間が添加されているのである。

そんな複数の人たちの時間が結晶化したともいえる畏れ多き寿司であるが、それを僕らはお金を払うことで、いとも簡単に入手できるのである。お金と時間の交換が、ここに成立している。お金が時間に変化しているのである。

以上、お金が時間に変換される様相を確認した。以下では、そこから派生して言える幾つかのことを思いつくまま列挙しようと思う。

<お金持ちは、時間持ち>

お金が時間に変換されるという前提に立つならば、お金が沢山あればあるほど、多量の時間と交換できることになる。すなわち、お金持ちは時間持ちであるといえるのだ。
お金が沢山ある、と言う状態を個人的には羨ましいとそこまで思わないが、時間が沢山ある、と言う状態は非常に魅力的に思える。

<時間と時間の交換>

お金→時間の交換を上記では説明してきたが、私たちは同様に時間→お金の交換が労働というものを通して可能であることをよく知っている。

給料や報酬としてもらったお金は、ある意味では自分の時間が結晶化したものである。そしてそれで何かを購入するという行為は、その商品の形成に携わった人々の時間を入手するようなものであるので、ここに(自分の)時間と(他者の)時間の交換が成立していると見ることができる。

この時間と時間の交換によって、他者の時間をある意味で自分の人生に引き込んでいるともいえるかもしれない。

お米を買うという行為は、お米を作る誰かの時間(労働)を手に入れるという行為であり、それを自分の時間と交換することによって、結果、間接的に自分がお米を作る作業をしていると見なすができると思うのだ。
そう思うと、見方によっては、自分の人生というのは完全に自分色で染め上げられるものではなく、細々としたパッチワークのように複雑に誰かの時間が散りばめられた人生であるともいえるのかもしれない。

<時間と時間の交換によって失うもの>

一方で、時間と時間の交換は質的に同等な交換ではないことに注意する必要がある。例えば、自分で料理を作る代わりに、一定の時間を仕事にあて、その時間を誰かの料理を作る時間と交換したとしよう。
間接的に料理を作ったがごとく、結果として自分の人生にその料理が出現したわけではあるが、それに費やされた時間そのものを交換によって手に入れることはできない。
料理をする際に感じた気持ちや、作業の経験値はその人のもとにとどまり、言ってみれば成果だけが交換される。
これは勿論、こちらが時間を手放す際も同様である。時間の成果は誰かに譲渡できるものの、そこで生じた感情や思考、経験値は自分に蓄積されるのである。

単一の仕事を自らが行い、それを他者と交換することによって、多様な作業が必要なはずの日常生活を結果的に見れば営むことができるかもしれないし、自らがその多様な作業に従事するよりも物質的には多くのものを享受することが出来るであろう。
一方、多様な作業がもたらす感情の機微などは、単一の作業に没頭することで機会損失するのである。

分業化が進んだ社会においては、時間の交換によって客観的には豊かな生活を送ることは可能であるが、実は時間の交換を全くしないような自給自足の生活の方が、主観的には豊かである可能性もあるだろう。

<時間の不平等性>

お金によって他者の時間を入手できる=他者の時間を自分の人生に添加することができるといえるが、添加された他者の時間も含めた「総消費時間」なるものを考えた場合、前述のようにお金がある人がより時間を多く持っていると言える。

また、時給で考えた場合、例えば時給1万円の人と1000円の人がいた場合には、前者は自分の1時間で後者の10時間分の時間を入手することが出来得る。言ってみれば自分の時間が仮想的には10倍に増えるのであり、逆の立場から見れば自分の時間が仮想的に10分の1に圧縮されることになる。
自給の違いは単なる可処分所得の差異にとどまらず、仮想的な成分も含めた総可処分時間なるものの差異にまで及ぶことが考えられる。

万人のもとに平等だと考えられる時間も、見方によってはひどく不平等であるのかもしれない。

なおロジックを考察すると、これまで時間と時間の交換という表現を用いてはいるが、より正確には労働と労働が交換されると考えられるので、労働=時間×エネルギー×技術という先述の仮説に従えば、高度な技術を持っていたりエネルギーを大きく消耗したりする場合には、それが何倍もの他者の時間に変換されるということなのかもしれない。

<ミクロとマクロから見えること>

これは少し余談めいているが、個人的に面白い発想だったので残しておきたい。ミクロ的な視点、個人的な視点で考えれば時間は際立って有限であり、だからこそお金に価値があると解釈することができる。
一方、これはマクロな視点から見た場合に様相を異にする。個々人の時間は限られているため、その総体としての全体の時間も一見限られているように見えるが、子孫をつないでいくことにより、社会や人類としては、時間を無限に増やすことが可能なのである。

この差異から何が導かれるかはまだ見えていないが、そのうち時が来たら思考を進めたい。

<労働と時間という言葉の響き>

おそらくこれまでの話は、「時間」を「労働」という言葉に置き換えても話を進めることはできただろうし、もしかしたらそちらの方が適切であったかもしれない。一方で、労働という響きは、マクロな視点がはいってくるからだろうか、どこか一般性が強すぎて、個人においては有限であるという感覚に乏しく聞こえる。
個人的には、それを「時間」と表現した方が、個人が持っている有限なもの、という感覚が強くなるので、時間という言葉を用いて話を進めたかったのである。

<Time is moneyの視点に立って感じたこと>

少し強引にいえば、お金は時間である、ということで表すこの視点に立つことで、お金に対する捉え方が大きく変わったような気がしている。
報酬なり給料なり贈与なり、お金をもらうということは、それまでお金をもらうということでしかなかったが、お金を通してその人やあるいは誰かの時間をもらっているのだと考えた時に、どこか無機質に見えていたお金が温かみを持ったような気がしている。自分の中で、お金の価値はよく分からないが、人の時間の価値や有限性みたいなものをそれなりに気にしているからだろうか。

同様に、それを無駄に使うということへの意識も少し強くなった気がする。例えば行政は、お金を通して僕らの時間を吸い上げて、誰かや何かに再分配している。
不可侵であったかと思われた個人の時間が、間接的に収奪されていると見なすことも出来る訳であり、自分の有限な時間を使う以上、真っ当なことに使って欲しいという想いがどこか強くなったような気がしている。

そして現在、自分が何かをして報酬をもらう際、例えば家庭教師として働き報酬をもらう際には、頂くお金がその生徒の両親の時間なのであると自覚しているが、その感覚が自分にとって非常に重要であるような気がしている。

時間とお金についての考察。時間とは何か、お金とは何か、そしてその関係性は、という思考は今後も長い人生の中で引き続き行っていくものだと思われるが、とりあえず現状の暫定的な解には納得している。

Time is money ではなく Money is timeを、暫くは抱えながら生きていきたい。

コメント

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