都市部住民の自然活動に関するエネルギー的矛盾①

僕は現在金沢駅より徒歩10分程度、割と都会と言える所に居住している。

一方で、現在、白山の麓を主なフィールドに、仕事の一つとして小学生から社会人まで幅広い年齢層を対象に自然体験の指導をしている。また、プライベートでも、自然の中で様々なことを感じ再考する時間が自分にとってある種必要不可欠な時間であると自覚しているため、それなりの頻度で金沢から遠く離れた山や川や海に出没している。

現代人の多くは、田舎ではなく、都市と呼ばれる領域で生活を送っていることと思う。東京中心部をある種の最高値とした「都会度」のようなレベルには幅広いグラデーションが認められるだろうとは思いつつ、かつての山村や農村のような在り方を思えば、殆どの人が都市的な生活を送っていると言って差支えないのではないだろうか。

言ってみれば、日常の中で自然を身体的にあまり感じることのできない生活である。(例えそれが”自然物”であったとしても)都市にあるあらゆるものは、何かしら人の意図が介在し、人工的に設計されたものである。直接的にも間接的にも、絶えず「人」を感じずにはいられない暮らしが、都市的な生活だと言える。

そんな窮屈さからだろうか、都市的な生活が当然になった現代だからこそ、自然への欲求が高まっているようにも見える。例えばそれが、昨今のキャンプブームなんかにも表れているのではないだろうか。

癒しであったり、開放感であったり、自分をリセットするためであったり、その実態は色々であろうが、都市では得られない精神的充足を、人々は自然から得ているのだろう。

そんな風にして、「自然で過ごす時間」が現代人の個人的な充足や幸福に寄与していると言えるだろうが、人々が自然で過ごすことによって、そのような「個人的便益」に加えて「社会的便益」も同時にもたらされると考えられる。

それは、ひとことでいえば「地球市民」的な精神が涵養されるということだ。

国連でSDGs(持続可能な開発目標)が採択され、この記事を書いている前日(2019年9月20日)にもグローバル気候マーチなるものが世界各地で開催されたように、持続可能な社会(の自然領域)に対する地球規模の要請は年々熱を帯びているに思う。実際、様々な科学的な指標(エコロジカルフットプリント、プラネタリーバウンダリーなど)が指し示すように、地球と人間社会のバランスは著しく崩れているように見える。

そんな世界にあって、「地球や自然を大切にする」こと、及びそのような態度をもった市民を育てていくことが地球規模の重要課題であるといえる。テクノロジーの発展なのか、足るを知り清貧に甘んずるのか、持続可能な世界に向けてのアプローチは幾つかあるだろうが、いずれかのアプローチを選択するに足る根底的な精神を養うことがある意味最も重要なことであろう。

ではその為に必要なことは何か?それは、正義感や倫理などではなく、「愛着」だと考えられる。

勿論、正義感や倫理観も重要だ。だが、それらに由来する動機はたいてい「~ねばならない」といったような義務感の様相を帯びる。それも悪くないのだが、それだけではしんどいだろう。そうではなく、自然に愛着を持ち、「○○が好きだから、~したい」といった自分視点の気持ちを育むことが重要だと思われる。愛着だけで十分と言っているのではなく(時として、それは暴走する)、土台としてそれが最も重要であると思うのだ。

そして、そんな自然への愛着を育むのに最も有効だと考えられるのが、「自然で過ごす」ということである。

心地よく冷たい川で遊ぶ。野山を歩き山菜をとる。山に登り眺望を楽しむ。海に潜り魚を突く。星空の下で焚火を囲む。鳥のさえずりと共に朝を迎える―。例えばそんな時間を自然の中で過ごすことで、自ずから環境意識なるものが芽生えていくような気がするのだ。

ということで、「自然で過ごす時間」や、それを提供する「自然体験」は、個人にとっても社会(世界)にとっても大きな価値のある活動だと、僕個人としては考えている。

しかし一方で、「エネルギー」ということを考えた際に、無視できない矛盾を見出さずにはいられない。

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