社会的分業について②

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さて、これまでは分業化が個人の「生」の感覚を毀損し得ることを述べた。次は、分業化が流通と結びついた時に、自然環境に対しての意識を損ない得るということを記したい。

分かりやすいので、食について考えてみることにする。

今や流通は発達し、国境を越えた物資の輸送に特別感も何もない時代である。日本の食料自給率はカロリーベースで37%、生産額ベースで66%(平成30年度)と遠く自給自足には及ばないが、それでも生きていられるのは、日本ではないどこか遠くで誰かが食糧を生産してくれているからであり、流通によってそれが無事に日本まで運ばれているからである。

このように消費の現場と生産の現場が遠く離れていることにより、以下の弊害が考えられる。

一つ目は、消費側が生産の現場の実態を知る機会が減少するということである。

切り身が海を泳いでいると考える子どもがいる、なんて冗談みたいな話もあるが、分業化に加え流通によって両者が地理的に分断されることで、消費と生産の連続性がさらに見えにくいものとなってしまう。

地理的分断がなかった場合、果たして自分が食べている肉はどうやって作られているのか?と疑問に思ったとして、生産の場まで足を運ぶことも比較的容易いため、自分の消費しているものの由来について理解を深めることができる。自分の生活と生産の現場をつなげることによって、ものごとの繋がりを実感として理解し、そしてその過程で自然環境に対する意識がおのずと育まれることが期待できる。
あるいは、田んぼに囲まれた通学路を歩く中で無意識的に愛着が生まれるようなこともあるかもしれない。

翻って、消費と生産の現場が離れてしまえば、牧場や田んぼの風景、屠畜の現場などは、ただ資料の向こう側にある世界となってしまう。

心理的距離は、おおよそ物理的距離の影響を受ける。消費と生産の現場が遠くなってしまえば、経験や学習の機会が失われてしまい、自然への愛着や環境意識が育まれにくくなることが考えられる。

二つ目は、フィードバックが生じにくく人々が鈍感になるだろう、ということである。

消費と生産の現場が地理的に離れることで、それらの環境的つながりは弱まる。おそらく二者間の距離が離れるほどに、消費の現場での環境への介入が、生産の現場に届きにくくなる。

そのような状況で、たとえば消費の場周辺で環境を損ねてしまったとしても、それがただちに生産の現場に影響を及ぼすことはなく、従って重要なライフラインである食糧を介した自らへのフィードバックも即座には生じることがないだろう。

地球という複雑なシステムの幾つかの経路をたどり、いつかは自分たちにしっぺ返しが訪れることにはなるかもしれないが、さしあたり分かりやすく自覚できる範囲では問題が無いという事態が生まれることになる。

消費と生産の場を解離は、このようなプロセスによっても、人々の環境への意識を鈍くさせるのではないだろうか。

分業化によって社会は加速し、より複雑化し、そしてさらに分業化していく―といった、分業化と複雑化のスパイラルがあるように見える。スマホの有効利用やAI技術の活用、人間のサイボーグ化などといったテクノロジーにより、複雑化に対処しようという向きもあるだろう。しかし、それ自体、いってみれば人生の分業化である。

社会的分業化は私たちに大きな繁栄をもたらしたし、その効率性を考えれば簡単に否定することはできない。
しかし、繁栄を目指すべきものとして置くことを疑うことが出来るようになった現代においては、分業化が「人間としてのクオリティ」を毀損し得ることも理解したうえで、改めて社会を設計していくことが必要なのではないだろうか。

コメント

  1. AaronScamy より:

    Wow! This might be by far the most useful thing on the topic I’ve ever read. Thanks for your hard work.
    preliminary thesis

  2. […] 社会的分業について②前回の記事はこちらからさて、これまでは分業化が個人の「生」の感覚を毀損し得ることを述べた。次は、分業化が流通と結びついた時に、自然環境に対しての意 […]